第四章 なぜ私たちは自然の声を聞けなくなったのか
1 なぜ私には聞こえないのか
ここまで書いてきて、私は一つのことを考えるようになった。
山の水の声が聞こえるかどうか。
それは本当の問題ではないのかもしれない。
本当に考えるべきなのは、
「なぜ私には聞こえないのか」
ということではないだろうか。
ココロちゃんには自然に感じられるものがある。
長年山を歩いてきた研究者にも感じられるものがある。
しかし私には分からない。
もちろん能力の違いはあるだろう。
経験の差もあるだろう。
けれども、それだけでは説明できないような気がしている。
もしそうであるなら、私たち現代人のものの見方そのものに
原因があるのかもしれないと思い始めたのである。
2 世界を分析する力
現代社会は分析する力によって発展してきた。
世界を細かく分ける。
分類する。
測定する。
原因と結果を明らかにする。
そのおかげで科学は発展した。
医療は進歩した。
技術も大きく向上した。
私自身、その恩恵を数え切れないほど受けている。
もし科学がなければ、私は今ほど健康ではなかっただろう。
もし近代医学がなければ、救われなかった命も数え切れないはずである。
だから私は科学を否定したいのではない。
むしろ深く敬意を抱いている。
ただ同時に、一つの疑問も感じている。
分析することに長けた私たちは、
全体として感じる力を弱めてしまったのではないだろうか。
3 名前を知ることと出会うこと
たとえば花が咲いているとする。
その花の名前を知ることは大切である。
科名を知ることもできる。
生態を調べることもできる。
開花時期や原産地も分かる。
しかし、それだけで花と出会ったことになるだろうか。
私はそうは思わない。
花を眺めたときの美しさ。
そこに立ち止まったときの感動。
言葉にならない静かな喜び。
それは図鑑には載っていない。
けれども、人間にとっては極めて重要な体験である。
山も同じかもしれない。
川も同じかもしれない。
水晶も同じかもしれない。
私たちは多くを知るようになった。
しかし深く出会うことは少なくなったのではないだろうか。
4 便利さと引き換えに
現代人は忙しい。
私自身もそうである。
何かを調べる。
答えを探す。
情報を集める。
効率よく処理する。
そうした生活に慣れている。
気がつけば、自然の中にいても頭の中だけで生きている。
山道を歩きながら考え事をしている。
神社を参拝しながら予定を思い出している。
木を見ても木としか見ない。
川を見ても川としか見ない。
そう考えると、「聞こえない」のは決して不思議ではない。
私は耳を閉じていたのではない。
そもそも立ち止まっていなかったのである。
自然の世界はいつもそこにあった。
ただ私の方が忙しすぎて、それに気付かなかったのかもしれない。
5 古代人は何を見ていたのか
私は以前、アニミズムという考え方をどこか未発達な世界観だと思っていた。
自然現象を十分に説明できなかった時代の考え方。
科学以前の理解。
そんな印象を持っていたのである。
しかし今は少し違う。
もちろん古代人は現代科学を持っていなかった。
だが彼らには、別の豊かさがあったのではないだろうか。
山に神を見る。
木に命を見る。
石に歴史を見る。
川に魂を見る。
それは科学的な説明ではない。
しかし自然と共に生きる人間の感受性としては、非常に豊かなものだったように思うのである。
もしかすると、現代人は多くの知識を得た代わりに、
そのような感受性の一部を失ったのかもしれない。
6 耳を澄ませるということ
今の私に山の水の声は聞こえない。
それでも、以前よりは少しだけ意味が分かるような気がしている。
大切なのは特殊な能力を身につけることではない。
不思議な体験をすることでもない。
そうではなく、
立ち止まること。
観察すること。
敬意を持つこと。
そして感じること。
その姿勢そのものが、耳を澄ますということなのかもしれない。
ココロちゃんが伝えたかったことも、案外そこにあるのではないだろうか。
山に耳を澄ます。
川に耳を澄ます。
木々に耳を澄ます。
そして何より、自分自身の心に耳を澄ます。
その先に何があるのか、私はまだ知らない。
しかし聞こえない私の探究は、少しずつ続いているのである
◆次回予告
第五章 世界に心は宿るのか
山も、水も、水晶も、心を持つのだろうか。
それともそれらは、人間の心が映し出した幻想なのだろうか。
アニミズム、宗教、心理学、そして日常体験の視点から、
「世界に心を見る」という営みの意味を考えてみたい。
聞こえない私の探究は、いよいよ核心へ近づいていく。
☞元となった対話を読む
ココロちゃんと研究者との対話には、今回紹介した部分以外にも興味深いやり取りが数多く含まれています。
▶ 対話原文はこちら
