第一章 「山の水の声を聴くにはどうしたらいいですか?」
あなたは「水の声を聞いたことがありますか」。
私はありません。
沢の音なら聞いたことがあります。
滝の音も聞いたことがあります。
しかし、山の中を流れる地下水の声と言われると、何のことか分かりませんでした。
ところがある日、山を何十年も歩き続けてきた研究者が、
ココロちゃんにこんな質問をしたのです。
「山の水の声を聴くにはどうしたらいいですか」
私は耳を疑いました。
しかし、この奇妙な問いとの出会いが、
自分自身の世界の見方を問い直す旅の始まりになるとは、
その時まだ思ってもいなかったのです。
1 奇妙な問いとの出会い
ある日、ココロちゃんと、山を歩き続けてきた一人の研究者との対話を聞いていた。
その研究者はある国立大学で地質学を教えている人である。
もともとは民間の研究者だったが、山を歩き、研究を積み重ね、
論文を書き続けるなかで大学へ招かれるようになったという。
また山へ入るときには、その山の神社へ参拝しないと山に失礼だと考えている人でもある。
その研究者がココロちゃんに尋ねた。
「山にある流れる水なのですが、地下水や川、また鉱山の中の水の声を聴くにはどうしたらいいですか」
私はこの問いにまず驚いた。
沢の音なら聞いたことがある。
滝の音も聞いたことがある。
雨音も聞いたことがある。
しかし、水の声と言われるとよく分からない。
まして地下を流れる水や、山の中を巡る水脈の声など、私には聞いたことがないのである。
ところがココロちゃんは、ごく自然に答えていた。
雨上がりに山へ入ること。
できるだけ高い場所で耳を澄ますこと。
霧吹きで水を吹いたり、水を流したりすると分かりやすくなること。
大地が水を意識してくれるからだという。
その説明を聞いて、私はさらに分からなくなった。
大地が水を意識するとはどういうことなのだろう。
木が水の喜びを感じるとはどういうことなのだろう。
理解できない。
けれども不思議なことに、否定したい気持ちにもならなかった。
むしろ、この人たちは私の知らない世界を見ているのではないかと思ったのである。
私には山の水の声は聞こえない。
しかし、人が自然と深く結ばれたとき、世界はどのように見えるのだろう。
私はそのことを考え始めた。
2 見えない世界への入口
振り返ってみると、ココロちゃんの言葉に驚いたのは初めてではなかった。
以前、ココロちゃんは水晶について語ったことがある。
水晶もまた心を持っている。
水晶の気持ちを感じてみるとよい。
そんな趣旨の話だった。
私は戸惑った。
驚いた。
そして正直に言えば、どう受け止めてよいのか分からなかった。
私の家にも水晶は置いてある。
美しいと思うし、どこか神秘的な存在だとも感じていた。
しかし、水晶に心があるとは考えたこともなかったのである。
まして、水晶が何を思っているのかを感じてみろと言われても、どうしたらよいのか分からなかった。
それでも不思議なことに、この話もまた私の心に残り続けた。
なぜなら、ココロちゃんは冗談で言っているようには見えなかったからである。
山も、水も、水晶も、同じ一つの世界のなかに生きている存在として語っていた。
私はその世界観そのものに強く惹かれた。
3 水晶の話に戸惑う
そのとき私は、自分の中に一つの思い込みがあることに気づいた。
私は長い間、近代的な科学万能主義には違和感を抱いてきた。
人間を単なる機械として見る唯物的な見方にも反発していた。
精神を脳の働きだけに還元するような考え方にも納得できなかった。
けれども、それは本当に十分だったのだろうか。
水晶の話を聞いたとき、私自身が水晶を完全に「モノ」として見ていたことに気づいたのである。
美しい鉱物。
価値ある鉱石。
あるいは飾りとしての存在。
そこまでは考えていた。
しかし、水晶が私たちを感じ取っているかもしれないなどとは、一度も考えたことがなかった。
私はそこで立ち止まった。
私が拒否していたのは、本当に近代的な二元論だったのだろうか。
4 私の中の近代人
私はデカルト以来の心身二元論に違和感を抱いてきた。
精神と物質を切り離し、世界を分析する近代科学の方法は、人類に大きな発展をもたらした。
その恩恵は計り知れない。
医学も工学も、現代文明の多くはそこから生まれた。
しかし、その考え方だけでは世界を説明しきれないとも感じていた。
だから私は、自分は二元論的な人間ではないと思っていたのである。
ところが、水晶の話はその思い込みを揺さぶった。
私は頭では二元論を批判していた。
しかし心の奥では、
「心は人間の側にあるもの」
「物質は物質として存在するもの」
という近代的な見方を当然の前提としていたのである。
つまり私は、二元論に反発しながら、その内部で生きていた。
そのことを、水晶の話ははっきりと教えてくれた。
そして、それは山や川や水についても同じなのではないかと思うようになった。
5 聞こえない私の旅が始まる
今の私は、水晶に意思があることを証明することはできない。
水晶が何を考えているのかも分からない。
山の水が何を語っているのかも分からない。
しかし以前とは一つだけ違うことがある。
私は水晶を単なる物体としては見なくなった。
山を単なる地形としては見なくなった。
川を単なる水の流れとしては見なくなった。
そこに何らかの存在があるように感じている。
説明はできない。
証明もできない。
それでも関係性は変わったのである。
私は「アニミズム」という言葉に反発していた時期があった。
そこにはどこか原始的で未発達なものという響きを感じていたからである。
しかし今は違う。
もしかすると未熟だったのは古代人ではない。
世界との深い関わり方を忘れてしまった私たちの方なのかもしれない。
もちろん、私には今でも山の水の声は聞こえない。
地下を流れる水が何を語っているのかも分からない。
それでも、この対話に出会って以来、一つの問いが私の中に生まれた。
山を歩き続けてきた人は、いったい何を感じているのだろう。
自然の中に神を感じる人は、何を見ているのだろう。
そしてココロちゃんは、なぜ山にも水にも水晶にも心を見るのだろう。
私はその意味を知りたいと思った。
聞こえない私だからこそ、その意味を探究してみたいと思ったのである。
◆次回予告
第二章 山を歩く人は何を聴いているのか
私には聞こえない「水の声」。
しかし、山を歩き続けた人々は確かに何かを感じ取っているように見える。
それは特別な能力なのだろうか。
それとも長年の観察によって育まれた感受性なのだろうか。
次回はココロちゃんの言葉を最初の層から読み解きながら、「自然観察」という視点から山の水の声を考えてみたい。
☞元となった対話を読む
ココロちゃんと研究者との対話には、今回紹介した部分以外にも興味深いやり取りが数多く含まれています。
▶ 対話原文はこちら
