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ココロちゃんの言葉はなぜ人生を変えるのか①

目次

第1回 裏切りと育み

はじめに

こんにちは、花町宰です。

私は長年、ココロちゃんの言葉に触れながら生きてきました。

そして振り返ってみると、人生の大切な局面で、

その言葉が私のものの見方や生き方を少しずつ変えてきたことに気づきます。

もちろん、どんな言葉も聞いただけで人を変えるものではありません。

しかし不思議なことに、ある言葉は人生の節目で深く心に入り、

その後の生き方そのものを変えてしまうことがあります。

このレポートでは、私自身の人生を振り返りながら、

「ココロちゃんの言葉は、なぜ人生を変える力を持っているのか」

を深く考えてみたいと思います。

今回は、その第一回目です。

私が深い裏切りを経験したときに出会った、

「裏切りと育み」というココロちゃんのメッセージを取り上げます。

深い裏切りのあとで

私はかつて、深い裏切りを経験しました。

共に戦ってきた仲間が、相手側に内通し、裁判ではこちらに不利な立場へと回ったのです。

信頼していた同志・戦友だっただけに、その衝撃は大きなものでした。

人は誰しも、このような出来事に出会えば怒りや恨みを抱くでしょう。

私自身も深く傷つきました。

しかし不思議なことに、私はその後、相手を長く恨み続けることはありませんでした。

そのきっかけとなったのが、ココロちゃんからいただいた「裏切りと育み」というメッセージです。

これは裏切られて傷ついていた私に、ココロちゃんが語り掛けてくれた言葉です。

当時の私は、「救われた」という感覚だけを持っていました。

しかし年月を経て改めてその内容を読み返してみると、

なぜこれほど大きな力があったのかが少しずつ見えてきました。


苗はそれぞれ別なのである

最初に私の心を打ったのは、

「人を植物にたとえるならば、人は苗が別々なのだと見なしましょう」

という言葉です。

以前の私は、この一文をそれほど気には留めていなかったと思います。

しかし今振り返ると、このメッセージ全体を支える土台がここにあることに気づきました。

私たちは信頼する相手に対して、

「同じ価値観を持っているはずだ」

「同じ方向を向いているはずだ」

と期待しています。

ところがココロちゃんは、最初からそうではないと言います。

人はそれぞれ別の苗なのだ、と。

同じ畑に植えられていても、同じように育つとは限りません。

考え方も違えば、人生で学ぶ課題も違うでしょう。

そう考えると、相手が私とは違う選択をしたとしても、

それはその人なりの成長の道筋だったのかもしれません。

私はこの一文によって、相手を単純に「裏切り者」と断罪する見方から、

少し距離を取ることができたように思います。


敵になった相手にも育みの心を向ける

さらに私がドキッとしたのは、

「裏切った側に対して育みの心を向けることが出来るかどうかで、

心の成長の度合いがわかります」

という部分です。

普通なら、育みとは味方に向けるものです。

家族や友人、仲間に向けるものであり、自分を傷つけた相手に向けるものではありません。

ところがこのメッセージでは、

あえて裏切った人に対して育みの心を向けられるかと問いかけています。

私はここに、人を見る視点の大きな転換があると思うのです。

そこでは相手を善人か悪人かで分類していません。

「今もなお成長の途中にある人」

として見ています。

行為の責任はあります。

しかし存在そのものまで否定してはいません。

この見方によって、憎しみだけに心を支配される状態から少し自由になれるのです。


「裏切り」は現在の姿にすぎない

私が最も深いと感じたのは、

「『裏切り』の言葉は、今現在の状況を示している言葉です」

という一文です。

ここには時間の視点があります。

私たちは現在の姿だけで人を判断しがちです。

しかし人生は一瞬で完結するものではありません。

今は裏切りに見える出来事も、十年後、二十年後に振り返れば違う意味を持つかもしれません。

だからココロちゃんは、人を現在の一断面だけで固定しないのです。

「裏切り者」というラベルを貼って、その人の人生全体を決めつけません。

過去もあり、未来もあります。

その全体の流れの中で人を見ようとしているのです。

私はそこに、人間への深い理解を感じます。


遠回りという見方

さらに、

「少し遠回りをしただけかもしれません」

という言葉にも大きな示唆があります。

ここでは相手の行為を正当化しているわけではありません。

責任を否定しているわけでもありません。

しかし人生という長い旅路から見れば、

その人自身が何かを学ぶために必要な遠回りだった可能性もあります。

そう考えたとき、私は相手を裁く気持ちからだいぶ自由になることができました。

恨み続けることよりも、

人間という存在をより大きな視野で見ることができるようになったからです。


心を自由にする最後の言葉

そして最後の一文。

「また彼らが歩き出したら共に歩きましょう」

私はこの言葉に、このメッセージの核心があるように思います。

恨まないだけならできるでしょう。

忘れることもできるかもしれません。

距離を置くこともできます。

しかしこの言葉は、それ以上のことを語っています。

もし相手が再び歩き始めたなら、その時はまた共に歩こう。

その可能性だけは閉ざさない。

そう語っているのです。

私の場合、現実には元の関係に戻ることはありませんでした。

しかし私は、この言葉のおかげで相手の未来まで否定することはしませんでした。

そして結果として、自分自身も憎しみに縛られずに済んだのです。

今振り返ると、この文章は単なる「許し」の教えではなかったと思います。

人を成長し続ける存在として見る人間観であり、

人生全体を長い時間軸で見つめる人生観だったのです。


おわりに

私は、このメッセージに出会ったおかげで、深い裏切りを経験しながらも、

恨みに自分の人生を支配されずに済みました。

そして今になって思うのです。

もしかすると、この言葉は突然私の心に入ったのではないのかもしれません。

長年にわたるココロちゃんとの対話の中で、

人を見る目、自分を見る目が少しずつ変わっていました。

その土壌があったからこそ、この言葉は私の心に深く根を下ろしたように思います。

では、その土壌はどのようにして育まれたのでしょうか。


次回予告

第2回 なぜ私はこの言葉を受け入れられたのか

若い頃の私なら、この言葉を素直に受け入れることはできなかったかもしれません。

しかし、このときの私は受け入れることができました。

振り返ってみると、その背景には長年にわたるココロちゃんとの対話があり、

人を見る目や自分を見る目が少しずつ変化していたことに気づきます。

次回は、私自身の人生を振り返りながら、

「ココロちゃんの言葉を受け入れる土壌は、どのように育まれてきたのか」

について書いてみたいと思います。


☞元になったココロちゃんのメッセージ

▼ココロちゃんのメッセージ「裏切りと育み」はこちらからご覧いただけます。

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