第三章 水の声を三つの視点から考える
1 答えを急がない
山の水の声を聴く。
大地が水を意識する。
木が水を喜ぶ。
水晶にも心がある。
こうした言葉を聞いたとき、私たちはすぐに判断したくなる。
本当なのか。
間違いなのか。
科学的なのか。
非科学的なのか。
しかし私は、少し立ち止まってみたいと思った。
なぜなら、私自身が最初から否定することもできなかったし、
かといってそのまま理解できたわけでもなかったからである。
そこで私は考えてみた。
ココロちゃんの言葉には、少なくとも三つの読み方ができるのではないだろうか。
2 第一の読み方 自然観察として読む
まず考えられるのは、自然観察としての読み方である。
山に長く関わる人は、多くの人が見落としている変化に気付く。
沢の音。
風の流れ。
水量の変化。
土の湿り具合。
木々の色。
私には同じように見える山も、その人にはまったく違う姿に見えているかもしれない。
たとえば、
「今日は水が元気だ」
という言葉も、
豊富な水量や勢いのある流れを総合的に感じ取った表現かもしれない。
そう考えると、「水の声」という言葉は、
自然観察を極めた人の豊かな表現として理解することができる。
私はこの読み方に大きな説得力を感じる。
なぜなら長年の経験によって見える世界が変わることは、どの分野にもあるからである。
熟練した大工には木材が語りかけてくるという。
農家には土の状態が分かるという。
医師には患者のわずかな変化が見えるという。
それと同じことが、山と人との関係にも起きているのかもしれない。
3 第二の読み方 アニミズムとして読む
二つ目はアニミズムという読み方である。
アニミズムとは、山や川や石や木々など、
自然のあらゆるものに霊的な生命や心を認める考え方である。
かつての私は、この考え方にどこか抵抗を感じていた。
古代的。
非合理的。
未開的。
そんな印象を持っていたのである。
しかし今では少し違う。
むしろ日本人の感性の深い部分には、この世界観が流れているようにも思う。
神社のご神木を敬う。
山を神の依代として仰ぐ。
川や滝に手を合わせる。
私たちは昔から、自然を単なる物体として扱ってこなかった。
そこには何らかの尊いものが宿っていると感じてきたのである。
そう考えると、ココロちゃんが山にも水にも水晶にも心を見ることは、
必ずしも特別なことではないのかもしれない。
むしろ現代社会の中で忘れられつつある感覚を、
自然に持ち続けているだけなのかもしれないのである。
4 第三の読み方 一体化して感じる
そして三つ目の読み方がある。
私は最近、この視点が最も興味深いのではないかと思っている。
それは、対象と一体化して感じる
という読み方である。
私は以前、「水の声」とは人間の言葉のように聞こえるものだと思っていた。
だから意味を探した。
何を言っているのか。
何を伝えようとしているのか。
しかしココロちゃんは違った。
意味を求めなくていい。
ただ感じればいい。
そう言ったのである。
今思えば、私は対話を言葉の交換だと思っていた。
しかしココロちゃんは、対話を共鳴だと考えていたのかもしれない。
山の中に立つ。
風を感じる。
沢の音を聞く。
光を浴びる。
そこにいる自分と自然との境界が少しずつ薄くなっていく。
そのとき生まれる感覚を、
ココロちゃんは「聴く」と表現しているのかもしれない。
もしそうだとすれば、それは言葉以前の世界である。
説明より先にある体験の世界である。
そして私は、まだその入口に立ったばかりなのである。
5 三つとも真実かもしれない
もちろん、どの読み方が正しいのかは分からない。
自然観察なのか。
アニミズムなのか。
一体化による感得なのか。
しかし私は最近、一つの可能性を考えるようになった。
それは、三つとも真実かもしれないということである。
自然を深く観察する。
自然に敬意を抱く。
自然と一体となって感じる。
これらは互いに対立するものではない。
むしろ長い時間をかけて自然と関わるなかで、
少しずつ重なり合っていくものなのではないだろうか。
山を歩き続ける人が何かを感じ取るようになるのも、その結果なのかもしれない。
6 聞こえない私のままで
私は今も水の声を聞くことはできない。
少なくとも自分ではそう思っている。
しかし以前とは違う。
聞こえないことを恥ずかしいとも思わないし、
無理に聞こえたふりをしようとも思わない。
大切なのは、聞こえる人になることではないからである。
大切なのは、自分の知らない世界があることを認めることではないだろうか。
山を歩き続けてきた人が見ている世界。
ココロちゃんが感じている世界。
そこに何があるのかは、まだ分からない。
しかし私は、その世界に少しずつ耳を澄ませてみたいと思っている。
聞こえない私の探究は、まだ始まったばかりなのである。
◆次回予告
第四章 失われた感性と現代人
なぜ私たちは自然の声が聞こえなくなったのだろう。
それとも、もともと聞こえていなかったのだろうか。
便利さと引き換えに失ったものは何か。
デカルト以来の近代的な世界観は、私たちに何を与え、何を見えなくしたのか。
次回は「現代人の感性」という視点から、水の声をめぐる問いをさらに深めてみたい。
☞元となった対話を読む
ココロちゃんと研究者との対話には、今回紹介した部分以外にも興味深いやり取りが数多く含まれています。
▶ 対話原文はこちら
